SNSのコトバ、AIの小説

広報が、苦手だ。 
デザインの苦手さも関係しているが、それ以上に広報の言葉がうまくない。 

さいころの自意識で 
「作文が得意かも、好きかも」と思ったのは 
作文がモノローグを基本とするものだったから、だと思う。 

私にとって言葉は、密かなるものの表現手段だった。 
学校にいても 
友だちといても 
親や先生など大人といても 
何かが上手くいっていない、何かが上手く言えていない。 
本当は言うつもりもなかったことを 
間に合わせに繋いでしまって、意図しないコミュニケーションを成立させてしまう。 

意図しない間に合わせのコミュニケーションが 
厳然とした「現実」を確定し 
それに対し、一貫性や、責任を求められることが嫌だった。 

その「現実」のままならなさを 
自分のなかで、こっそり補正する手立てが 
家に帰って密かにノートを書くことだった。 

ノート(言葉)は、本当はこうあったのではないか、こうだったらよかった 
本当はこう思っていた 
など、「現実」と、心の奥にやむを得ず収納してしまった「何か」を 
接続する媒体だった。 


そんな中、太宰治など 
憧れの作家が何人かいた。 

彼らは、ひそかなるモノローグの水準において 
「現実」と「自分」を 
非常に独特の文体でつなぐことに成功しており 
そこに作家性、文芸の技なるものを見出していた。 


** 


たぶん、私にとっての「書くこと」への憧れと、文体の選択は 
基本的にそこらへんで止まってしまい 
あまり更新されることがない。 

が、この古典的な近代文学観らしきものは 
どんどん更新されて行ったと思って間違いない。 
私のついていけない領域に。 

戯曲などの要素を借りながら「会話文」が洗練され 
描写の技術が高められ 
現代詩、現代文学の誕生は 
「モノローグ」の危機、語り手、書き手、まなざし、家族、性、国籍の主体性を解体し 
統合失調的な文体を可能にしていく。 
村上龍村上春樹吉本ばなな綿矢りさ、村田紗耶香… 


いわゆる「文学」の文体が変わっていくと同時に 
学術の世界の文体、ビジネスの世界の文体、雑誌・新聞の文体も 
何がしか変わったのだろうけど 
それはまだよく分からない。 
また、これらの文体の変化には、「文章がどのように読まれるか」という 
環境の問題、情報流通の問題が、深く関連している。 


むしろ明らかに変わった(現れた)のは 
SNSの世界の文体で 
これが興味深くもあり、怖くもある。 

SNSに使われる言葉は 
ある意味で、「遠くに飛んでいく」言葉のように見える。 
遠くに飛びやすい言葉と 
飛びにくい言葉が混ぜられている。 

遠くに飛びやすい言葉が多く混ざると 
いいね!、リツイートになりやすいが 
必ずしも遠くに飛ばす意図を持たなくてもよくて 
極めてモノローグ的、個人的、遠くに飛ばすつもりがなかった言葉でも 
なぜか人に読まれてしまうことが可能性としてはある。 

恐らく、SNSにおいては 
遠くに飛ばすにせよ、飛ばさないにせよ 
核になるのは多くの人の感情を、共感のフックに引っ掛けられるか否か? 
そのような共感のフックに反応した自分(いいね、リツイートを押す自分)を 
再帰的に、自分の友人たちに見られても良いか否かが 
含意されている。 
(佐田ぬいさんが、いいね!を押しました、とtwitterでは表示される) 

感情を共感のフックに引っ掛けると言えば 
程度が低いようにも思われそうだが 
そもそも、漱石だろうが、鴎外だろうが 
単純モノローグではなく、ただ人を、論理の共感フックに引っ掛けようとしたのか 
感情の共感フックに引っ掛けようとしたのか、何のフックが選択されたかが 
少し違うだけ、という気もする。

そうなってくると 
読み手を、いかなる共感フック(あるいは反発でもいいのかもしれないけど)にも 
引っ掛ける意図なく書かれた文章は 
ほとんど存在しない、ということになってくるのではないか。 

この文章自体も、何かのフックを吊るしているのだろう 
(が、それが何のフックなのか、あまりはっきりしないことが別な問題を生んでいる) 


それがアザトイことなのか、嫌らしいことなのか 
純でないことなのか 
何なのかは知らないが 
事実、そうなっているということを一応、認識することに意味はあるだろう。

 
近代文学の文体、現代文学の文体、詩の文体、学術論文の文体、ビジネス文書の文体 
手紙の文体、マスメディアの文体、SNS言葉の文体、非文字の文体が 
それぞれ、どういう技術で書かれていて 
どういう動機、どういうフックに引っ掛けようとして書くのか、読まれるのか 
自覚的になることが新しい時代の作文教室といった感じだろうか。 


佐藤理史『コンピューターが小説を書く日ーAI作家に賞はとれるか』を 
読んでも 
なかなか分かりにくい部分が多かったが 
「文体」そのものは、もっと技術的に処理されつつ 
もっと自覚的に選ばれても良かろうと感じている。 

個人的には、AIにどんどん小説を書いていただき 
文体、作家に宿る「神性」を解除してくれた方が 
むしろ文体は復活するし、誕生するような気がしている。

AIに文章をどんどん書いてもらうことで、「文体とは何か?」を問う私たちの意識が生まれる。 

いろんな文体が復活し、誕生することは、ある種、生き易くなると言うことだろうと 
思っているのだが。 

 

 

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