客席と舞台と「私」-仙台体験のはじまり

3月初旬、実家のそばにアパートを借り、仙台に帰った。

6畳間のアパートには、まだ冷蔵庫、レンジ、ネット環境が無い。

このブログもメディアテークで書いて、wifi使って投稿している。

それでも、あるいはその不便感ゆえ、私は全く飽きることなく

仙台で行われるイベントに嬉々と参加し、この街の雰囲気らしきものを掴まえるのに専念した。

青森のように雪が無いので、サクサク、どこへでも歩けるし、自転車でいけた。

 

3/9@宮城県美術館「アートみやぎ2019」

3/8@せんだいメディアテーク「仙台デザインリーグ」

3/9@せんだいメディアテーク飯館村へ帰る」

3/10@せんだい演劇工房「短編戯曲賞」

3/11@東北電力ホール「レクイエム演奏」

3/13-15@エルパーク仙台「仙台演劇祭」

3/17@みやぎ婦人会館「若者の居場所づくりとその意義」

 

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いつも思う。

演劇なり、映画なり、美術でも小説でも、何でも人の創作物に立ち会ったときは

忠実に、その創作に向き合わなくては、と思う。

 

なのに、たいてい作品に向き合うことができない。

わたしは結局、作品を視ている「私」を、そこから引き出してしまう。

問いは、作品や役者へと向かわず

むしろ「なぜ、私は、このシーンを、こう視るのか?こう解釈したがるのか?」

という視方の問題へとスライドし

視方とは、結句、「私」の世界観についての反省(反証)なのだった。

 

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そもそも、作品に触れることは

理想的には旅に出るようなもので、普段の「私」を一瞬でも越え、置き去りにする効果があるのだと信じている、

というか信じたいと思ってきた。

なのに、他者の作品を通じて、他者を発見するのではなく、「私」を発見するに過ぎないとすれば

旅に出た先で、ネットやパンフレットで見た既知の風景を次々に「私」に回収して安心し

一歩も私を出ない「私」になってしまう。

そういう人は、あまり旅に出る意味が無さそうだ。

 

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あるいは、逆のことも気になる。

舞台のうえに立って演じるとは

どういうことなのかと強い関心が湧いている。

 

つまり、舞台を観客として眼差している私たちが、その先に「私」を発見することがあるのだとすれば

舞台から観客を見つめている側は、演技を通じて、観客に眼差されることで「私」(演じ方について考えてしまう私)を発見してしまうことがあるのだろうか

それとも演じることで、「私」を彼方に葬り去ることに成功しているのだろうか。

 

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なぜか、舞台を見つめていると、「私自身」へと

問いの矢印が自分のほうへ向いてしまうことを避けられない。

 

殊更にそれを悪いと思い込むこともないかもしれないが

せっかく、人が創ったもの、その場で演じているものを見ているのだから

作品そのもの、場そのものを、「私」とは無関係に、味わってみたいものです。