SNS時代の、作るを問う

仙台生活は、10日になる。
ニトリから長身175㎝ある本棚が4つ届き
6畳間のなかで、本棚を誤って倒したり引きずったりで、フローリング床をガリガリ削りつつ
不器用なわたしは何とか4つの本棚を組み立てた。
「…こ、これは。退去時の敷金が」
本を収納する気力さえ失せるほど疲れ切った。

できあがった4体の本棚は、まるで棺桶のようであった。
小さな人間なら、すっぽり収まりそうで恐ろしい。

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その間に、twitterを復活させ、ブログを開設した。

私は、せっかく本を読もうが、映画を見ようが、音楽を聴こうが
片っ端から忘れてしまい、同じ本や映画を借りてきてしまうことが、しょっちゅうだ。
記憶や記憶、が苦手らしい。
情報収集も発信も苦手なので、いい機会だと思ったのだが
これはこれで難しいことに気づいた。

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はたして、皆さんは
誰かに読まれることを想定しない文章を書いたことがあるだろうか?
私は、小学生のとき、ひっそり日記を書いたのが最後だ。

それ以後、書いた文章は
すべて誰かに読まれることを想定して書いていた。
それは公(おおやけ)のコトバを使って書かれ
公の言葉とは、いまやSNSのコトバでしかないのだった。
(あるいは、先生や上司に見られることを想定した文体ぐらいは獲得している気がするが…)

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人に読まれること、伝わることを前提に書く。
発表の場があることを前提として、何かを作る。
あまりに当然だろうか?

いや、そうとも言い切れない。
私とて、小さい頃に書いた日記は、誰にも見せないものだった。
誰にもやらせないゲームを考え、作るときの面白さ。
そして、あの頃に感じた
考えること、作ることの面白さを、まだ少しは覚えているのだから。

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よき物語の作り手になれない私は
小説も戯曲も、思うように作れなかった。
うまくいかなかった。

代わりに「視る」ことから世界を広げたり、奥深くに入る
批評や評論のジャンルに関心を持った。

批評や評論と言っても、何のことか理解されないのが普通だ。
(かつては、そうでない時代があったらしい)
要するに、長い文章が読まれにくくなっている、という時代的な制約やら
スマホで文章を読んでいる、というメディア的な制約やら
私の実力以外に、環境が書くことを難しくさせていると思っていた。

でも、じっさいは違っているかもしれない。

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もしかすると、「人に読まれることを前提としすぎた言葉」(SNSのコトバ)を
使ってしか
何かをできなくなってしまっている自分の困難。
つまり、SNSコトバ、というツールを見直した方がいいのかもしれない。

もはや、たった1人、虚心に書くことさえ難しい。
あえてノートパソコンやスマホをやめ
400字詰め原稿用紙を机に並べて、えんぴつで書き出すことが必要かもしれない。

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…とか言いつつ、この文章を投稿し、リンクを貼ってしまう私。

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写真は、加藤典洋『僕が批評家になったわけ』

批評についての私が知る限り、最もよいと思う入門書です(私的に)