体操について考える

NHK第一、6時30分からのラジオ体操を 
よく活用している。 
ラジオ体操の音源ぐらい、どっからでも手に入るのに 
やはり朝6時30分までに起きて、体を動かすこと自体に意味を感じてしまう。 

準備体操という言葉があるが 
私は長いあいだ、ずっと、体操は何かの準備であって 
体操が終わった後は、しかるべき本番が始まるのだと思っていたし 
学校時代は、そうだった(水泳、徒競走、球技、部活) 

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年のせいか、性格のせいか、状況のせいか 
何だかよく分からないが 
自分はこのまま、一生、準備体操をしたまま、何となく寿命が尽きるのではないかと 
少し前に考えた。 

準備体操は、頭をほぐす、身体をほぐす、固着や居着きを避けるために 
行われるものと考えられるが 
「では、何のために頭をほぐしたのか」 
「では、何のために身体をほぐしたのか」 
と言われても 
そう簡単には答えられない自分を見つけるのだった。 

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というのも、私はよく本を読むし、ラジオも聴くし、記事も読むし、映画や博物館の展示などを含めて 
何がしかを吸収する意欲や量は、かなり多いと思う。 
そのなかで、自分の生地を練ってきた。 
不充分なところも多いが、そう悪くない厚みをもった感覚はある。 

若いころの私は、これは「何か、しかるべきこと」 
自分で固有の表現やら、固有名がついた何かを成すための 
準備や勉強だと思って 
他人がつくった作品やら、既存の文化のありようを摂取してるのだと 
とりあえずは言い聞かせてきた。 
要するに試合本番のための、準備運動という発想だ。 

ところが 
「自分で固有の表現」やら、「固有名がついた何かを成す」ことが 
思ったより難しかったり 
そのことに拘泥することで自分の心身を擦り減らすに至っては 

「それそのもの」が、楽しいから、自分の心身を「主観的」に豊かにするから 
という理由を自然と選択するようになっていく。 

体操は、何かのための体操ではなく 
体操そのものが楽しい、気持ちいい、と言い始める。 

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おそらく、ほとんど99%の人間は 
自分の感ずるところを、最終的に、そう持っていかないと 
生きていくこと自体が困難であり、虚無だと思うのだが 

自分が「そうやって」生きていることを 
客観的に、他人に見える形で、自己証明することが 
とても難しい。 
わかりやすい成果物を持ってこない、目に見える(昭和的)基盤整備を果たさない 
「楽しい」、「気持ちいい」、だから、いいんです。 
という居直りが難しい。 

これは簡単に言って、呪いでしかない。 

私にとって、この自己証明の相手っていうのは 
ずーーっと、両親だった。 
いまも、昔も。 

「楽しい」、「気持ちいい」 
ではなく 
これが何の実益になり、何の名誉になるのかを 
明示的に説明しない生き方を 
まだ許してくれていないように思えてならないからだ。 

私自体、20-30代の序盤までを 
「これは「何か」の準備体操なのだ」と 
言い訳して 
ずっと両親(仙台)から逃げ続けてきたツケでもある。 

「何か」が無くなったのなら 
もう、本番(安定した就職!結婚!子育て!親の介護!)のみだから 
オマエにはあまり時間はないぞ! 
というプレッシャーが、きつくなる。 

それこそ、私がもっと年老いれば許してもらえるのか 
両親が自然の摂理で寿命を全うすれば、許してもらえるのか 
そのとき、自分は何歳なのかと、切実に考える日もある。 

そして、そんな「私に対して上位者(立派な大人)」として振る舞う親当人が 
異なる他者や、未知と向き合うことができない 
ヘイトスピーカーであることを、私は許せないでいるのだった。 

(…というか、うちが特殊なのではなく、大学から文系学部が消え、何の役に立つかを一覧明示、数値換算できない限り、学問が成り立たないことと、全く同じ問題なのですが)

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体操は、体操そのもの、体操しているうちに 
何となく人生を閉じてはいけないのだろうか。 

もっと言えば、体操は何かのための、誰かのための、体操でなくてはならないのか 
体操は、自分の頭と身体の世界を 
しなやかにするだけでは、許してもらえないのだろうか。 

もう、体操しかできない私は 
せいぜい、ラジオ体操仲間を探すので精一杯である。 

そして、我々がやっているラジオ体操は 
他人からはラジオ体操にしか、見えない。 

いつ、走るんだ?? 
と言われ続ける。 
走らないなら、体操する意味がないぞ!!と聞こえてくる。 


ちょっと飛躍かもしれないが、上の世代に何のかんの言われ続けているうちに 
何にも確たる足場をつくれず 
年をとっていく世代なりの、共通テーマという気がするが。 

あとは、どうやって、楽しくラジオ体操やりましょうか 
という話でしかないから 
アクティブに、全速力で走ることや、打ったり投げたりしているわけではないので 
傍目にはやはり、何もしていないように見えてしまう。 

〇〇世代、△△しない若者、□□系 
などと言われたまま、きちんと反論できないまま、あるいは前の時代を拒絶も受容もできないまま 
ぬるぬる来てしまった気がする。 
もうすぐ令和の子どもが生まれる…

 

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